店舗名″BAODAI″
ハイバチュン通りに少数民族生地の雑貨をメインにした土産物屋を開けた。
この店は、日本人の友人であるN村との共同出資だった。
2003年頃の話だ。
BAODAIは儲からない店だったが、赤字にもならなかった。
とにかく客入りが少なかった。
1日15人ぐらいの客入りで、売上は100ドルちょいだったと記憶している。
1時間に1人程度が店に入ってくる感じだ。
それでも赤字にならなかったのは、当時は人件費も家賃も安かったからだ。
最初の契約家賃は月650ドルぐらいだ。
店の大きさは4×15mだった。
毎月の利益は1000ドル弱程度。
それを折半にしていたので、N村の取り分は500ドルだった。(私の取り分も)
私は別の店舗や会社があったのだが、N村はこのBAODAIビジネスが全てだった…
N村と知り合ったのは2001年で、当時彼は佐川急便の現地採用社員だった。
私が日本向けの雑貨輸出をする際に佐川を利用することがあり、その時に出会ったのだ。
N村は、独立してプチ成功している私を追うように佐川を辞め、同様に雑貨輸出を始めた。そして、このBAODAIを共同経営するに至った。
店の経営は、営業と販売管理をN村が行い、仕入れや経理を私の会社が担当した。
共同経営でありがちなイザコザはなく、円滑に運営していた。
しかし、儲けはいつまでたっても少ないまま。
ただ赤字にはならず、低空飛行し続けた。
一つ思い出になったことがあった。
ある時、N村はベトナム人男性スタッフと店舗内で揉めた。
理由がなんであったかは覚えていないが、その男性スタッフは激高して店舗の電話つかんでそれを机に何度も叩きつけ、最後に店の南京錠(鉄製で角があり重いやつ)をN村の顔面向けて投げつけた。
南京錠はギリギリN村の顔には当たらず、後ろのコンクリ壁に当たった。
コンクリ壁はペンキが剥がれ、凹んでいた。うまく?命中していたら顔面骨折は確実だったろう。
男性スタッフはその後店を出ていき、戻ってくることはなく、N村も彼に連絡することはなかった。
喧嘩をしたことのないN村はその時ブルブル震えていた。(と、その場にいた別のスタッフは言っていた。)
あの頃は、キレやすい若年男性が今より多かったように感じる。
今より社会が貧しかったからかもしれない。
揉めた時、自分に正当性があっても大怪我なんかしたくはないので、匙加減は大事ですね。
お店の話にもどります。
当時はベトナムバブル前夜の時期。
黒字低空飛行を続けるBAODAIも、年々大きく上昇する家賃に利益を圧迫され、3年して墜落する前に自ら着陸した。
つまり閉店。
4年間、毎月数百ドルの収入で生き続けたN村は散った。(経済的にね)
自営業は甘くないと骨身にしみた彼は、小さな紆余曲折を経て再度現地採用社員に戻った。
*上記の写真は今も売り続けている民族生地雑貨です。
ベトナム雑貨の仕入れ検討の方は下記リンクをご覧ください。
あと、BAODAIとはベトナム最後の皇帝の名前です。
大げさな名前にそぐわない売上でした、、、残念。
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