2022年11月26日土曜日

私の履歴書11【カフェに投資したら、売り逃げされた】


2002年頃。
「なあ、H君。将来の夢とかある?」
こう聞いたのが間違いの始まりだ。

Hは私が雇った最初の運転手だ。
当時25歳ぐらいだったろう。
ブ男だったが、割と気が利くタイプだった。

彼に投資、全権委任し、カフェを開くことにした。
Hは運転手を1年足らずで卒業し、カフェの雇われ社長になったのだ。
雇われ社長といっても、名義人はHだ。(これが問題)

cafeの場所は、5区のTran Phu通り358番地。
番地名まで覚えているのは、カフェの名前をそのままCafe358としたからだ。
店は、コーヒー1杯3,000ドン程度のいわゆるローカルカフェ。
客層はショボく、近隣の10代の若者やオッサン達だ。
彼らはコーヒー一杯で何時間も駄弁り、テレビを観ている。
お客の半数以上はニートだったと思う。

私は自分の持ち物であるデコレーション雑貨を店に飾ったりしていた。
週に2回以上は友人やスタッフを連れて店にコーヒーを飲みに行った。

客層が95%以上男なので、カフェの従業員は全員若い女の子だ。
Hは、なるべく可愛い子を雇い、全員にミニスカートを穿かせていた。
地方から出てきた女の子は店の中二階に住み込んだりしていた。
Hはオーナー?店長の権力をかざして、そういった女の子に手を出していたようだ。(後にスタッフから聞いた)

それは、私が有限会社を設立登記の手続きのため日本に一時帰国している時だった。
スタッフから国際電話がかかってきた。
「あのカフェ、もうH君いないよ。カフェに行ったら、オーナーが変わったとカフェの店主(新しいオーナー)に言われた。H君売り逃げたんやわ。」
「...そうか、わかった。今俺にできることはないから、ベトナムに戻ったら...」

ベトナムに戻って、カフェに行ってみると、看板が変わっており、Hは居なかった。
当然のごとく、Hに連絡はつかなかった。

ベトナムで小規模店舗ビジネスの居抜き営業権譲渡は、普通によくある話だ。
Hは私が日本にいった隙きに、カフェの権利を売って現金を手にして逃げたのだ。
カフェの営業は苦労の割に大して儲からないので、手っ取り早く大金?を得たくなったのかもしれない。

結果的に、Hは泥棒であり、悪人だった。
こんな奴に関わってもろくな事はなさそうなので、私はHを積極的に探さなかった。
全権委任する時点でこういった事が起こることは織り込み済みでもあった。

ベトナムでこういった店をやらせる場合、登記簿オーナーと店長は別人物にしたほうがいい。
また、オーナーとなる人物の実家の家族と交流し、顔見知りになっておくべくだろう。
魔が差すことは誰にでもありえるのだが、ハードルはできる限り高くしておいたほうがいいのだ。

イージーに悪さができてしまう状態を作ると、自分の為にも、相手の為にもならない。
ということを実体験として学んだ。(賢い人は実体験など必要ないが)

こんな事があってから1年後くらいだろう。
Hが私に連絡してきたのだ。
我々は、カフェで会った。(もちろん358カフェで、ではない)
Hは、あのカフェの事は悪かった、また違うビジネスをしたいので金を貸してくれないか、と言ってきたのだ。
完全に私をナメており、お人好しのバカだと思っていたのだろう。
私は彼の目をジロリと睨んで言った。
「担保として実家。親の保証サイン。前のカフェの投資金も合わせて金利は月10%。今からお前の親の住んでる家に行こか。」
「...」
これがHとの最後の会話だった。

長年ホーチミンに住んでいる私の体感。
ベトナムは凶悪犯罪は少ないが、窃盗などの軽犯罪は多い。
スリや引ったくりを場当たり的に行なっている奴らも結構いる。
サンダル履きで引ったくり、走って逃げていくのを見ると、何で靴履かんねん!と思ってしまう。

持てる者は持たざる者に与えるべし。
→持てる者から盗っても問題なし。
→油断してる者から盗っても問題なし。
→盗られる奴が悪いだけ。
泥棒が多いのは、こういった考え方の人達が一定数、まあまあいるからだ。

盗る奴が悪い!という日本人的思考は、世界的には非常識だ。

2022年11月15日火曜日

ホーチミン駐在の実態2「帰任はつらい。また戻ってきたい国、ベトナム」


の続き

第一勧銀駐在員事務所長B氏(50歳ぐらい)
日本人はB氏1人の駐在員事務所で、ベトナム人秘書が1人だけいた。
B氏とは麻雀以外で付き合いはなかったが、秘書が私の女友達の友達だったので、彼の話はよく耳に入ってきた。

当時は日本人1人と秘書1人みたいな駐在員事務所が結構多かった。
1人駐在員は基本的に暇だ。(本人のやる気次第ではあるが)
常に差し迫った仕事はない。(だから少人数なのだ)
銀行の駐在員事務所は、体裁の為に開けている。(と言っていた)

B氏が日本でどんなポジションだったかは知らないが、出世コースに乗ってないことは明らかだ。
本人もそれは自覚していたはずだ。(40前には行員人生の行く末は確定している)

ということで、B氏は潔く羽を伸ばして駐在員ライフを満喫した。
平日からゴルフ三昧。(週3日以上行ってたようだ)
たまに麻雀やキャバクラ。(たしなむ程度)
こういった遊びは全て接待や市場調査の為に必要だったらしい。(後に、みずほが支店を出すとき役立ったのかな…)

B氏にはベトナム人彼女(愛人)がいて、かなりハマっていた。
彼女は高身長でかなりの美人だった。(ハマっても仕方ない)
国立大卒で、賢く上品だったらしい。
帰任前に500万円ぐらいの家を買ってあげたと聞いた。
持ち続けていれば、今なら億の価値はあるはずだ。

B氏は帰任後も時折ベトナムに遊びに来ていたらしい。
彼女に会う為だろう。


JALホーチミン支店長O氏(50代後半)
ホーチミンの日本人社会の中で古株だった。
麻雀以外で全く関わりがなく、打ったのは数回程度だったと思う。
記憶にあるのは、セコイ打ち方だったということだけだ。


ここに書いた登場人物の方々は、だいぶ前に定年退職され、今は悠々自適な年金生活者となっているはずだ。
テレビでベトナムの事が流れるたびに、ホーチミン駐在時代を懐かしんでいるだろう。


*写真は、1区トンドゥックタン通りにあるThe Landmark Tower。
ホーチミンで最初にできたA級オフィス兼サービスアパートメントだ。
当初数年間の賃料は平米100ドル以上で、2年かからず投資回収したビルとして有名だった。
第一勧銀B氏はここに住んでいた。


【ベトナムから雑貨類の仕入れをご検討の方へ】

【ホーチミンで単身者向け賃貸マンションお探しの方へ】1区まで5分!

2022年11月14日月曜日

ホーチミン駐在の実態1「あの頃、ベトナム駐在はパラダイスだった…」


1990年代。
ベトナム駐在はパラダイスだった。

当時のベトナムは最貧国の一つとして位置づけられており、GDPが当時のTOYOTAの売上に及ばなかった頃だ。
フォーが一杯で20円、会社員の給与が5,000円以下だった。

日本ではバブルがはじけ、経済成長が停滞し始めていたが、まだ世界2位のGDPであり、当時のベトナム人からすると、日本人は大金持ちだった。
日本人は賢くてよく働くというイメージ、幻想も強かった。
また、ベトナムは親日なので、日本人にとって居心地が良いのだ。

こんな時代の状況下でベトナムに赴任する駐在員は、オイシイ。
海外赴任手当、ハードシップ手当、その他手当、みなし税云々で、手取り給料が2倍近くになることも普通だ。
メイド付きのヴィラやサービスアパート(掃除洗濯付)は、電気水道ネット代等込みで全額会社負担。
移動は運転手付きの車が各個人用にあり、ゴルフに行くのにも使える。(日本では満員電車で通勤してたのに)
1人駐在だと私的なゴルフやキャバクラ代を経費として落とすのもイージーだ。
朝食サービス+αを会社負担の家賃としている奴も少なくない。
小さな業横の話は、普通にあった。
仕事場に上司や同僚がほぼおらず、いるのは激安給与のベトナム人部下だけだ。
駐在員は、伸び伸びと、偉そうな態度になる。(人間だからね)


夜の10時。
伊藤忠商事ホーチミン所長宅。
そのヴィラは無駄に広く、社員はいつでも自由に使っていいことになっていた。
私の対面(トイメン)は伊藤忠の繊維部長、上家は第一勧銀駐在員事務所長、下家はJALホーチミン支店長だ。
雀卓周りのサイドテーブルには、私が手配した割高な弁当が置かれている。
当時数少ない日本食屋サイゴンカラオケに配達してもらったものだ。
風速2ドル。

若い私は、駐在員同士で麻雀するときの幹事として重宝されていた。
他社の駐在員を麻雀に誘ってメンツを揃えるのは面倒だし、誘って断られるのが嫌だったのだろう。

この頃ベトナムに進出していた日系企業は少なく、駐在員といえば大手企業の社員だけだ。
その中で麻雀好き、してもいいよ、ぐらいの人は20人ぐらいだった。
私は週に2~3回、このオジサン達と麻雀をした。
そんな人達の事をちょっと思い出してみる。


伊藤忠の繊維カンパニー部長H氏(50代)
日本の伊藤忠で繊維の部長といったら大したものだ。(数年後には役員だろう)
H氏のこの肩書は、ホーチミン駐在員事務所限定のものだ。
帰任すれば課長(代理かな)ぐらいである。

H氏はろくに仕事をしない男だった。(と社内で言われていた)
典型的な昭和の宴会部長だ。
仕事で使わないエネルギーは5時以降に爆発させていた。
平日夜はキャバクラかカラオケか麻雀。(歌はうまい)
週末は競馬かゴルフ。(ポニー競馬場がある)
ヘビースモーカーだ。(イメージ通り)
会社が用意しているサービスアパートにはほとんど帰らず、囲っている愛人宅に入り浸っていた。(毎月500ドルの小遣いを渡していた)

当時ニューワールドホテル別棟の1階にディスコ、2階にカラオケがあり、H氏はよくそこに行っていた。
私も付き合いで何度か行ったことがある。
50過ぎのH氏が、酔っ払ってディスコの真ん中で踊り狂っているのを見た。
滑稽だったが、ちょっと羨ましかった。

こんなキャラクターのH氏は、当然?麻雀が弱かった。(ありがとうございます)
でも暇なので、業務時間関係なく、私に電話をしてきた。
「今晩メンツ集めれる?」
「はい、今すぐ手配して折り返します。」

氏と人生勉強となるような会話をした記憶はない。
背中を見て学べ、というタイプだったのだろう。。。


*写真は90年代後半のミスベトナムNgocKhanhだ。
一緒に写真を撮ってもらったことがあるが、とんでもなく美人だった。
当時はベトナムで一番綺麗な女性にも簡単?に会えたのだ。

【ホーチミンで単身者向け賃貸マンションお探しの方へ】1区まで5分!

2022年11月12日土曜日

私の履歴書10【雑貨好きの雑貨店は潰れる】


ここまで、起業当時2年弱ぐらいの間に開けた雑貨店の話を書いてきた。
いついつ、どこで、店開けた、成功した、失敗した、、、等だ。
勢いで、場当たり的な感じでビジネスする人間と感じられただろう。
その通りだ。
商売が好きなだけで、雑貨なんか好きじゃなさそう、と思われたかもしれない。

それはちょっと違う、ほどほどに雑貨好きだ。
古いジャガーをこよなく愛し、昔は絵を描くことが趣味だった奴だ。

ここまで開けた店では、看板や内外装や什器は全て私のデザインやアイデアだ。
意外?と細かく、タイルの種類や貼り方まで、選んで指示した。
商品自体も、私がデザインした物が結構あった。

【雑貨好きの雑貨店は潰れる】
土産物屋で1番重要なのは、立地だ。
ただ、立地が良くても売れる商品を並べないと店は簡単に潰れる。
20年の間、いい立地の店舗が潰れるのを何十回も見た。

特に、オーナーがデザイナーでこだわりの商品が多い店はダメだ。
大体5年以内で閉店、10年以上続いた店は皆無だ。(激安家賃の辺鄙な所に移転し、ゾンビ店として体裁を保つ?ケースはあるが、事業的には敗北だ)
こういった店は内装もオシャレで、商品のデザインも良かった。
有名店化し、数年に渡って繁盛することもあった。
が、数年すると驚くほど客足が遠のき、廃業した。

なぜか?
答えは単純で、売れるものを売らなかったからだ。
売りたいものだけを売っていたのだ。

自分のデザインしたものや好みのものを売るのは、オーナーとして普通のことだ。
それらの雑貨が売れると楽しいが、成功体験ができて変化しにくくなる。
クセの強いデザイナーオーナーにその傾向が強い。

【雑貨店の生き残り戦略】
みなさんは、土産物屋は同じような特産品を売り続けていると思っているかもしれない。
観光客は二度と来ない人も多いのだから、今売れてる同じものを売り続ければいいのでは?と。
違うのだ。
ある時売れていても、半分以上の商品は1年経たず売れなくなる。
特にサンダルやバッグ、洋服等はその傾向が強い。
ずっと同じのが売れそうな?バッチャン焼きでさえ売れなくなったりする。

観光客の趣向を捉えるのは難しい、、というか無理だ。
観光目的、人種や年齢が常に変化するし、本国でのトレンドも毎年違う。
女性客や日本人が少ないときに刺繍バッグやサンダルを売ろうとしてもどうにもならない。
本国でラタンバッグのブームが去ったら、土産物屋でもそれは売れない。

ではどうするか?
売れ行きが鈍くなったら、再度仕入れるのをやめて、違う商品に変えていくだけだ。

店のシンボリックなオリジナル商品は?
そんなのなくていい。
あっても全体の5%以下にすべきだろう。(趣味程度)

というようなことを、雑貨屋をやって5年ぐらいで確信した。

最初の頃は、私も自分好みの商品を売っていたが、途中からやめた。
営業方針は『お客が買いたそうなものを売る』だ。

趣味にクセのある?私がこのように舵を切れたのは、自分なら買わない女性向けの商品を多く扱っていたからだろう。
つまり、”たまたま”だったに過ぎない。

【最後に】
これは過去の話だ。
レアな状況の、ニッチな、小売り店舗のケースだ。
皆さんのビジネスの参考になることはないだろう。

暇つぶしにここまで読んでいただきありがとうございました。

*この写真は過去にあったデザイナーオーナーの競合他店。(私の店ではない)

私の履歴書9【3ヶ月で閉店。刺繍専門店LOTUS HOUSEの話】


2001年末頃だったと思う。
雑貨店ememをオープンさせた同時期に、このお店LOTUS HOUSEを開けた。
この店は刺繍関連商品を専門的に扱った店だ。

ホーチミンは観光客向けホテルが市の中心である1区に集中しており、観光客向けのショップ等も1区にかたまっている。
観光で歩く範囲は限られており、数時間あれば市内全部の土産物屋を見回ることができる。

そんな中で1人のオーナーが同じ商品構成の雑貨店を開けても売上は偏ってしまうのだ。
当時私は、BUTTERFRY26とememという2つの雑貨店を同時に経営していた。
2つの店にはなるべく違うモノを、とは分かっているが、観光客に売れ筋の商品は決まっており、どうしても似通ってしまうのだ。
ちょっとカニバってるなぁ、と感じていた。

そこで、この店LOTUS HOUSEである。
名前だけ違う同じ店はできない。
専門店にしてブランディングを図ろう。
そんなコンセプトでオープンした。
パスター通りでだ。

結果はタイトル通りで、失敗。
3カ月程度で撤退した。

既存の雑貨店で刺繍関連のグッズは売れていたが、専門店にすると駄目だった。
私の店の客層は観光客で、その数はたかが知れている。
刺繍物を買いたいお客は更に少数だ。
家賃あたりの客入り数や売上比較で既存店と比べ駄目だったと記憶している。
立地も思ったより良くなかったのだろう。

あと、早期に辞めた理由がもう一つ。
この店は部分な又借店舗だった。
物件を借りてる日本食レストランオーナーからの又借である。
織り込み済みではあるが賃料が割高だったし、何よりも細かいことでレストランオーナーのベトナム人嫁とうちのスタッフが揉めることが多かったのだ。
電気水道代を上乗せ請求してくるとか、そんな話だったと思う。

ちなみに、この日本食レストランは、『おはん』だ。
2000年前後にホーチミンにいた駐在員なら、絶対に行ったことがあると思う。


起業してから1年半で5か所で雑貨店を開き、うまくいったのは2店舗だ。
結構失敗してるようにも思えるが、駄目だった店は規模が小さかったのが幸いだった。

この頃、私の会社は起業時に借りていた200ドルのショボい家から、1500ドルの場所に移転していた。
会社は5階建ての一軒家ビルだ。
刺繍と縫製スタッフを雇い始めたのはこの時期だ。
雑貨輸出の仕事はそれなりにあり、日本人スタッフも1人雇った。
店舗を合わせれば30人ちょっとを雇っていたはずだ。
といっても当時の従業員の給料は激安なので威張るような話ではない。

この時点で私の手取りは、月に5000ドル~8000ドルぐらいだったと記憶している。
やっと同じ年の商社勤務の友達に追いついた感じだ。
しかし、こっちは来月の利益保証などない零細自営業。
利益が少ないだけではなく、損をする可能性も高い。
サラリーマンと比べたら、最低でも3倍、いや10倍ぐらい稼がないと割が合わない。

これじゃぜんぜん足りねぇ、、、もっと何かやらないと。
29才の私はそう思っていた。

2022年11月10日木曜日

ベトナム不動産の見通し《歴史が繰り返すならボトムは2年後?》


[2022年11月時点]
ベトナム株(VNインデックス)と不動産価格、現在下落中。

ベトナム株は今年の4月から急落し始めた。
ちょうどコロナが落ち着き、入国規制を緩和し始めた頃だ。
それまで1,500を超えていたVNインデックスは半年で1,000を割り、今、転落の最中だ。(現在は約950)
ただ、チャート(VNインデックス22年間)を見ればわかるように、今のインデックスは、ちょうどコロナ前の2019年と同じ水準に戻っただけともいえる。

ここ2カ月ぐらいでベトナムの金利は上昇し、ベトナムドンも安くなった。
各銀行の定期預金金利は6%台から8%台へと上昇中だ。
(既に9%を超えるところもある)
ニュースでは、大手不動産会社がデフォルト起こしそうであるとか、マンション売れ行きが過去最低であるとか、、多くのネガティブネタが尽きない。

今後、株価と不動産は、さらに落ちていくのだろうか?


過去の話。
2007年、ベトナムはバブルの絶頂だった。
VNインデックスは史上最高値を更新し、不動産価格も暴騰した。
どこのマンションも計画の初期段階(更地の状態)で売り切れた。
景気は過熱し、土地成金が爆増した。
アブク銭(資産)を手に入れた彼らはディスコやバーで連日のように浮かれて騒いでいた。(私も?)

今チャートを見ればわかるが、バブルは2007年の11月にはじけ、VNインデックスは急降下し始めた。
最初はみんな過熱感を冷ます調整だと思っていた、いや願っていた。
途中デッドキャットバウンスを挟んだが、VNインデックスは落ち続け、2009年の初め、ついに4分の1以下になったのだ。
この大暴落は、天井から底まで1年2ヵ月ぐらいの時間がかかった。

しかし、不動産のボトムは更に2年後ぐらいで、2011年だったと思う。
そう、以前ブログで書いた2011年、金利が一番高かった年だ。(定期金利20%超え)
2011年は、私が借りていた賃貸物件の値段交渉時に、少しばかりの値下げを勝ち取った唯一の年でもある。

当時不動産価格の調整に時間がかかったのは、それまで国民全員が不動産神話を強く信じており、買った値段より下げて取引することなど経験がなく、現実をなかなか受け入れなかったからだろう。(昔の日本と同じだ)
また、ベトナム固有の事由だと思うが、銀行借り入れでの不動産取引が先進国ほど高くなく、焦って取引する人が多くなかったのかもしれない。

ベトナムに限らず、居住用賃貸価格の調整は速いが、不動産売買価格や商業不動産賃貸価格の調整には時間がかかる。


さて、ベトナム不動産の見通し。

株(VNインデックス)は、更に落ちていくかもしれない。
以前の大暴落のように1年以上落ち続けるかもしれない。
はたまた、ここがボトムかもしれない。
未来は誰にもわからない。(えー、そんな当たり前なこと聞きたくない?)

ただ、不動産は、インデックスとの調整タイムラグを鑑みると、これから更に落ちていくはずである。(インデックスがミラクルV字回復しないことが前提)

結論。
いや、テキトーな予想。
ベトナム不動産は、少なくとも1年は下がる。
歴史が繰り返すならボトムは2年後だ。
インフレや通貨安があるので、額面価格はそう変わらないだろうが、実質下落となるはずだ。

ホーチミンで家を買いたいなら?
そのお金があるなら定期預金に入れて、1年後にゆっくりと家を探し始める。
今買わなかった家が、1年後に預金利子を上回って値上がりすることはないだろう。



私の履歴書8【ホーチミン旅行客殺到?ベトナム雑貨店emem】


2001年10月頃。
ベトナム雑貨店ememをオープンした。
BUTTERFLY26と同様、観光客向けの土産物屋だ。
店の場所は1区のMac Thi Buoi通りで、ドンコイ通りとハイバチュン通りの間だ。
Mac Thi Buoi 通りは、ドンコイ通りと直角に交差する短い道だ。

ホテル内店舗の失敗で懲りた私は、自由に内外装して、雑貨店としての雰囲気を演出できる一軒家を借りた。
広さは十分で、4.5m×28mの2階建てだ。
1階には食器類や小物等の雑貨類全般を陳列し、2階をサンダル、バッグや洋服等のファッション系のスペースにした。
2階のバックルームにテイラースタッフと刺繍スタッフを数名常駐させ、オーダーメイドで衣類の販売も始めた。

店は地図で見るとホーチミンの中心なのだが、観光客はあまり歩いておらず、土産物屋をやるにはイマイチな立地だった。
オープン当時、付近に土産物屋はなく、空き物件がちらほらあったと思う。
家賃は1,200ドルだった。
私が借りる前のテナントはワイン屋で、1,000ドルで借りていたようだ。

大家は典型的なハノイ出身の婆さん。
旦那は共産党員で国営船会社の社長だ。(今は天国にいる)
物件は、戦後、功労のあった共産党員達に割譲されたものらしい。
ホーチミンの不動産物件でよくあるパターンだ。
この大家の婆さんには結構悩まされた。

当初私は、イマイチな立地だが1,200ドルは高くないし、中心ではあるので、知られさえすれば観光客は来るはずだ、とポジティブだった。
私は旅行会社と提携し、広告や営業活動を積極的に行った。

どうなったか?
ememは初めの月から儲かった。
投資回収は半年かからなかったと思う。
後に多くのガイドブックでememが紹介され、有名店となり、売上は安定するようになった。
2000年代にホーチミンに観光できたことのある人は、この店を覚えているかもだ。
ememという店舗名の由来は、ちょっとゲスいのでここでは控える。

この場所でのemem店舗営業は十年続けた。(後にドンコイ通りに移転)

初め1,200ドルだった家賃は契約更新の度に上げられ、最終的には5,500ドルになった。
私は家賃交渉を毎回頑張ったが、ビジネスがうまくいってることは大家に把握されており、毎契約時とんでもない値上げ率をのまされた。
2002年頃からベトナムは不動産バブルに突入し始めていたこともあり、婆さんは常に強気だった。

婆さんの家は2区の高級住宅街にあるヴィラだ。
全く汗水たらさず、利権で獲得した、プール付きの立派な豪邸だ。
私は家賃交渉の度にそこへ行き、へりくだって愛想笑いしていた。
こっちは毎月お金を払っていても、客ではないのだ。

店が儲かっていると、店子はその物件が必要だ。
簡単に移転などできない。
内装は無駄になるし、その住所での広告も無駄になる。
何より移転するとまた一からの準備なのでカネも時間もかかる。
大家の家賃アップに対し、家賃の上昇金額×契約年数と移転費用や手間を比べることになり、大体は値上げをのんだほうがマシということになって、家賃が上がってしまうのだ。
家賃交渉というより、上げ幅縮小のお願い、といったところだ。

また、日本のように入居者に有利な法律はない。

店を開けてから数年後、中心街で土産物屋に適した物件を見つけるのはかなり難しくなっていた。
家賃が高くなったから安いところに移転したいと思っても、そんな空き物件は皆無なのだ。
当時は、ちょっとしたアジアン雑貨ブーム、ベトナム観光ブームになっていて、我も我もと多くのベトナム人が同様の土産物屋を開けたからだ。
私以外の日本人オーナーの土産物屋も数軒できた。

土産物屋業界は、小さなパイを、早い者勝ちで、奪い合う戦いだ。
ほとんどの観光客はホーチミンに数泊する程度で、行動範囲は限られ、土産物に使うお金は平均50ドル以下だ。

観光客は、たまたま入ったお店で土産物を買ってしまったら、もうおなか一杯で、次はない。
翌日安くてカワイイ雑貨を見つけても、お金もキャリースペースもないのだ。
また、一度土産物を買ったら、もう土産物屋に行かない人がほとんど。
さらに、ここは海外であり、いくら気に入ってもらってもリピート率は低い。

"先に自分の店に来てもらい買ってもらう"ということがメチャクチャ重要な商売なのだ。

ホーチミンの中心で土産物屋を開けれる物件には限りがある。
カニバリゼーションに多少なったとしても、自社で先にいい立地を確保し、競合他社に店を作らせない戦略がいいだろう。
小さいパイを全部食べてやる!
と、その頃の私は思っていた。


【ベトナムから雑貨類の仕入れをご検討の方へ】

2022年11月8日火曜日

私の履歴書7【成功しない?REX HOTELで土産物屋オープン】


よく覚えていないが、2001年の春頃だったと思う。
ノリで開けた土産物屋BUTTERFLY26の経営が上手くいって味をしめた私は、さらに店をつくって儲けようと思った。

当時は今ほど家賃が高くないのだが、それは今だから言えることであって、観光客が多い立地は、当時なりに家賃は高かった。(そう思っていたはずだ)

BUTTERFRY26のような独立した個別物件を借りると、それなりの資本金が必要になる。
資本金の内訳は、前払い家賃、保証金、内装費、在庫商品代、等だ。
最低でも600万円は必要だったと思う。

サイゴンの中心街。
ジャガーを走らせ、私は後部座席でふんぞり返り、煙草を吸っていた。
(そんな時間が多かった)
街のホテルを見て、、、そんな時に思い付いたのだろう。

「ホテルのグランドフロアには結構な空きスペースがあり、小さな土産物屋があるところも何軒か存在する。俺もやったらええやん!」

土産物屋の客は観光客で、みんなどこかしらのホテルに泊まっている。
そこで店をやれば簡単に売れるだろう。
内装費も抑えられるし、小さな店なのでスタッフも1人ですむ。
投資金額も運営リスクも少なそうだ。
という分析だ。(甘い?)

私は立地のいいホテルに目星をつけ、スタッフに連絡させ、テナント受け入れの可否や家賃等の諸条件を調べた。

そして、ホテル内の土産物屋を2ヵ所、同時期に開けた。
レックスホテルとパレスホテルでだ。
ホーチミンの来たことのある人なら分かると思うが、それぞれの立地は申し分ない。
観光客も多く宿泊している。

覚えてないが、家賃は安かったと思う。
店の設置は簡単だった。
棚を数個運び込み、既存店用の在庫を流用しただけだ。

どうなったか?
失敗した。
半年もたず、2店舗とも撤退した。

安い家賃で、スタッフも1人。
維持費は安かったが、それ相応に売上も少なかったのだ。
キャッシュの赤字はほとんどなくトントンぐらいだったと思うが、時間的に赤字で無駄だったので、やめた。

ホテル内土産物屋のお客は、せいぜいそのホテルに宿泊している人達だけだ。
地図上の立地がよくても、別のホテルに宿泊しているお客はわざわざ入ってこない。
また、小さなインスタント雑貨店は品数も少なく、何より、店としての雰囲気がイマイチだった。

この失敗でいろいろと学んだ私。
思い付きでビジネスするのをやめたのだろうか?

2022年11月6日日曜日

日本からベトナムに海外送金《必読!激ムズなので要注意》


[2022年8月時点]

【日本からベトナムに海外送金】
これから海外送金をする予定の人には、特に読んでもらいたい。
ベトナム向けに限らず、この数年で日本からの海外送金はとてつもなく難しくなった。
数年前には簡単に送金できたのだが…

8月某日。
私は、まとまったお金を持って、近所の大手都銀(海外送金を扱う支店)に行った。
20年ぐらい前であれば、現金を持って行き、送金目的を適当に書き込めばいくらでも送れたのだが、10年ちょっと前からは送金に関する契約書等が必要になっており、その事は把握していた。

送金目的は、小規模ベトナム法人の株式取得。
私はその売買契約書、ベトナム法人の定款、銀行口座証明書、ベトナムの投資計画省の認可証等をあらかじめ用意していた。
現金の出どころを尋ねられると思い、書類も準備した。

担当行員にいろいろ聞かれたので、私は細かく説明した。
私の仕事内容や職歴、ベトナム法人のメンバー名や関係性等もだ。
行員は途中で上司に伺いを立てたりして、説明?いや交渉は1時間以上かかった。
しかし、結果は、ダメ。
別の書類や証明書が必要となり、翌日それを準備していくと別の書類を要求され、その翌日も、、、結局私は5日続けて銀行に通った。
個別事情は参考にならないと思うので、この交渉の詳細は省かせてもらう。


《海外送金する時の注意点》
  • 現金を持っていってはダメ
現金はお金の源泉(出どころ)証明ができないからだ。
まず、送金するお金は自身(もしくは自社)の口座に入っている必要がある。
  • 完全なホワイトマネーの証拠が必要
口座残高に送金金額分の源泉(出どころ)証明のある金額が必要となる。
ここでいう源泉とは、正規の給与所得や年金所得などの完全なホワイトマネーを指す。
他人(親族も)からの振込や自身で入金したお金の残高ではダメなのだ。
また、仮にホワイトな給与所得が送金したい金額分貯まっていたとしても、一回出金(や送金)してしまうと、それを入金し直してもダメだ。
入金し直しても、その源泉が証明できなくなってしまうからだ。
  • クリーンな人物/履歴かどうか
反社会的な人物でないかどうかは当然だが、源泉不明な入金が通帳記帳されていると、それは怪しいと思われ、その源泉証明も求められる場合もある。
自分のタンス現金を自分の口座に入金したとしても、だ。
下手な記帳のある通帳を見せるとヤブヘビになる。
  • マイナンバーカード
今時は、これがないと海外送金できない。
そういう決まりなのだ。(マイナカードを普及させたい政府の通達だろう)
  • 送金先との関係性証明
売買代金の送金なら契約書記載の会社の銀行口座であれば問題ないが、個人相手に送金(生活費や学費等)する場合は、相手との関係性を証明しなくてはならない。
住民票や戸籍謄本が必要になったりするのだ。
つまり、外国にいる婚約者や恋人や友人に送金することはできない。
関係性を証明できないからだ。


みなさん「こんなに厳しかったら送金できないやん!」と思ったのでは?
そうです。
実際、この銀行では何回も送金を断ったとのこと。
海外にいる子供の生活費を送りたいケース、10万円を旦那さんに送りたいケース等、それらしい事情はあっても証明書類が揃えられずダメだったらしい。
(たぶん客はブチギレただろう。)

行員いわく、厳しくなったのは、マネロンや反社会的活動防止の為に財務省から通達があったからとのこと。
建前はそうだと思うが、国としてのホンネはマネーが海外に逃げていくのを防ぎたいからだろう。

多くの途上国(ベトナムも)では昔から海外送金原則禁止だ。
自由だと自国通貨が売られて金持ちのマネーが人材と一緒に逃げていってしまうからだ。(シンガやドバイに)
財務省の通達からして、日本国が海外送金させないようにしたいのは明らかで、それは窮乏化の裏返しなのだろうと思った、残念だ。

さて、たかだか送金するだけのことで5日も銀行に行き、毎回1時間超えの交渉をし、追加で証明書類等を何度も準備させられた私がどうなったかというと、、、送金できた。
担当行員の上司にかなり意地悪された?と思うのだが、杓子定規的な銀行員にも情けはあったようだ。

当たり前だが、送金の可否を判断するのは銀行員で、こっちはお願いする立場というのが現実。
我々は”お客様ではない”ことをお忘れなく。

あと、これは某メガバンク経由の海外送金の話。
大差はないはずだが、銀行や支店や担当者によって対応は違うだろう。

*100万円以下の海外送金(出稼ぎ労働者等の送金)は、回数や合計金額に限度があるが、海外送金専門サービスのWISE等でできるようだ。(私は使ったことがない)


【ホーチミンで単身者向け賃貸マンションお探しの方へ】1区まで5分!

私の履歴書6【渋いぜ!サイゴンの赤いジャガー】


2001年。
雑貨店がすぐに儲かり始め、イエローハット案件で小金を稼いだ私は、調子に乗って車を買った。
1974年式のジャガーだ。
色はワインレッドで、めちゃくちゃ渋くてグラマラスだった。
中身がボロボロだったので、買ってすぐに修理した。

この年代のジャガーは、当時ホーチミン市内で所有者が私を含めて3人だけだった。
購入と同時に外国人車両登録をしたので、NNナンバーになり、それもあってこのジャガーは目立った。
外国人が車を買って”NuocNgoai=外国人”と登録することはレアだったのだ。

ベトナムの場合、当時は特にそうなのだが、車を自分で運転することはまずない。し
運転手を雇うのだ。
私はH君という運転手を雇った。
こいつ(H君)には、後にえらい目に遭わされるが、その話は別の機会に。

兎にも角にも、28歳の私は運転手付きジャガーのオーナーになったのである。
このジャガーで通勤し、店に行き、時折お客さんを案内したりした。

でも、この車が最も活躍したのは夜、プライベートだ。
よくバーやディスコの真前に乗り付けて、ゆっくりと、これ見よがしに、後部座席から降りていた。
女の子の家に車で送り迎えもよくしていた。
わかりやすく嫌味な若者だったと思うが、仕方ない、調子に乗っていたのだ。

この年代のジャガーはとんでもなくボロい。
漫画のような故障が何回もあった。
運転中にハンドルが抜けたり、床が抜けた事があった。
1番驚いた故障は、レタントン通りを運転中にタイヤが取れて転がっていったのを見た時だ。
毎3ヶ月以内にどこかしら壊れて、修理を繰り返していた。
燃費も酷くて、リッター3キロ程度。
かなり維持費がかかり続けたが、外見のカッコよさが好きで結局8年間乗り続けた。
金のかかるホステスにハマるのと同じだが、、、長すぎた。
最期は修理出来ないレベルに壊れてしまった。

ジャガーがなくなった後、私は車を保有するのをやめた。
それからはバイクに乗っている。

2022年11月4日金曜日

ベトナム在住25年、1番儲かった投資とは?


結果論だが、定期預金だ。

極端な例を探してくれば、不動産投資や株式投資が良かったのかもしれない。
しかし、不動産や株は元手がかなり必要で、知識やツテなども必要だ。
様々なリスクもある。

定期預金は簡単だ。
当たり前だが、学生でもサラリーマンでもできる。
知識やツテなど必要ない。
そして、5万円でも1億円でも、少額でも大金でもいくらでも可能だ。

1990年代後半、定期預金の金利は10%を超えていた。
その金利は何年経ってもほぼ変わらず続いて、2011年には20%を超えた。
それから年を重ねて金利は下がっていったが、今2022年時点でも8%ぐらいだ。(銀行による)
25年間でならすと、少なくとも11%以上で回っていたはずだ。

エクセルで100万を11%複利で引っ張ってみてほしい、いくらか?
1,545万だ。
これは最低でもこれだけはあるというラインだ。
ベトナムの銀行の多くは、1,000万円程度の金額で優遇金利を受けられるからだ。
金利の高い銀行を選び、金利交渉して、率の高い時期は3〜5年の長い定期に入れていれば2,000にはなっていたはず、、、20倍だ。
為替差損があっても関係ないレベルだ。

これまで、日本から来た人達によく聞かれたのは、
「ベトナムで何に投資したらいいですか?」
「どんな事業が儲かりますか?」
「ベトナム不動産はいいですか?」等だ。
20年前から何度も受けた質問だ。

回答は「定期預金」。
夢のない、つまらない回答だが、誠意を持って答えるならこれしかない。

不動産投資がいい、と勧められたら注意が必要だ。
それに付随する手数料ビジネス業界人の”シゴト”かもしれない。
日本人がベトナム不動産投資で、きちんと利確して、定期預金に勝ったケースを聞いたことはない。

以前ベトナムの保険会社の知人に聞いた話。
保険会社は現金が前払いで沢山入ってくるけど、その莫大な金はどう運用してるの?と、私は尋ねた。
「全額、即、定期預金です。」と言われた。
(保険会社は金の亡者で運用のプロ)

あと、ベトナムの銀行が破綻して預金が消失したケースは知らない。
銀行の吸収合併はたまにあるが。

いらん事業投資などせずに「定期預金やったー」と、後悔しているのは私だけではないはず…

とはいえ、これは過去の話で、結果論。
今後の参考にはなりません。


【ホーチミンで単身者向け賃貸マンションお探しの方へ】1区まで5分!


2022年11月3日木曜日

私の履歴書5【ノリで開店!ベトナム雑貨店BUTTERFLY26】


2000年末頃、雑貨店BUTTERFLY26を1区のレタントン通りで開店した。
この店舗は、私が初めて開けた小売店の土産物屋だ。
店舗名の由来は、家紋の蝶からであり、26は単純に通りの住所番号だ。

店は、現地で知り合った友人の日本人女性Yさんと共同出資で始めた。
イエローハットの案件で金を稼ぎ始めてはいたが1人で店を開ける余裕はなく、常駐店舗管理者も欲しかったので、Yさんの参加はありがたかった。

土産物屋をやるには良くない立地だった。が、我々が借りる前のテナントが同様の民芸品店で、観光ガイドブックにその店が掲載されており、観光客はそれに誘導されて来た。
新店舗だが、広告する必要がなかったのである。
そして、ベトナム旅行やアジア雑貨ブームが始まった時期が重なった。
店は初月度から十分な利益が出て、3ヶ月かからず投資回収した。

もともと小売店、土産物屋をやる気はなかった。
なんとなく貿易会社で食っていこう、儲かったら別の事もしていこう、と思ってただけだ。

貿易はサンプル依頼や見積りだけで本取引までいかないことがほとんどだ。
しかし、雑貨貿易の問い合わせの度に、市場や工場に行ってサンプル依頼したり写真を撮る必要があった。空振りの小口案件が増えると採算が合わなくなってしまうのだ。
そこで、サンプルルーム兼小売の店をすれば、いろいろと効率化するのではと思い、雑貨店を開けるに至ったのだ。

BUTTERFLY26。
マーケット分析も、緻密な事業計画も、ビジョンもない。
ズブの素人の場当たり的な起業の典型だ。
運が良かっただけ。
でも、当時の私にその認識はなかった。

あと、Yさんは当時20代後半だったのだが、何でこんな日本人がベトナムにいるの?というぐらい美人だった。
古手川祐子に似ていた。
何か事情があってベトナムに来たようだが、その事だけは聞かずじまいだった。

ちなみに、当時のレギュラー店員の月給は5,000円弱だ。これが搾取する資本家の利益源泉であったことは間違いない…

*22年前の写真、画素数低いですね。

2022年11月2日水曜日

私の履歴書4【ボロ儲け!イエローハット】


シープロデックスに冷やかし訪問した同時期。
小さな事務所経営者の私にとって儲かる仕事が舞い込んだ。
上の写真の商品、井草ボトルだ。
これを見て何かすぐにわかった人は、車好きで40歳以上なのが確実だ。
これは、車用の芳香剤のボトルである。
完成品は、芳香剤粒をボトルに入れて穴あきコルクで栓をし、底に両面シールが貼られている。
当時、全国のイエローハットで売られた。

私の立場は下請けの下請け。
直接イエローハットに売るのではなく専門商社Cが取引相手となる。
イエローハットで売られていることを知るのも、芳香剤として使うことを知るのも後のことだ。
どこで、幾らで、どれぐらい売る予定なのか全く教えてもらえなかった。
しかし、結果的にはそれが良かったのだ。

はじめに商社Cからきた見積り依頼の数量は3,000個だった。
この井草ボトルは再生ガラスを使ったもので、工場価格はかなり安い(当時数十円だったと思う)。
単純に25%ぐらいの利益をのせて3,000個売っても、私の利益は300ドルにもならないはずだ。
なので、買値に利益%をオンする値付けはせず、なんとなく買ってもらえそうな金額で見積りしたのだ。
見積り価格は1ドル/pcで、半分以上?いや大半が利益だったと思う。
3,000個の出荷だから"こんなもんでしょ"と思っていた。
"また見積り依頼だけで注文ないかもなぁ"とも思っていた。

FAXで注文書が届いた。
発注個数20,000と書いてあった。
注文個数が増えたから安くしろー、なんて言われることもなく、直ぐに前金の送金もあった。
私は狂喜した。
その頃事務所は、月に10万円稼げたかどうかのレベルだったからだ。

その後、井草ボトルは直ぐにリピートオーダーがあり、半年で10万個ぐらい出荷した。
もしも最初から万単位の注文予定ということやイエローハットで売るということが分かっていたら、カツカツ状態の私は、受注したいのでもっと安い見積りを出していただろう。
ついていたのだ。

会社を作って半年間の貧乏生活は終わり、若い私は、、、調子に乗り始めた。

*写真は今さっき撮ったものです。この井草ボトルは2000年当時に出荷した余りものですが、ほとんど劣化していません。驚き!ですね。

2022年11月1日火曜日

私の履歴書3【シープロデックスに行ってみた】


事務所を開けて半年後のある日。
私は日本から来たお客さんK氏と、BenTreにあるシープロデックスの海産物加工工場にいた。
シープロデックスは国営の水産会社だ。
その工場まで行くのにはメコン川を2回横断しなければならなかったのだか、当時は橋がなく、船で渡るしかなかった。往復の移動で半日以上かかった。

飲食店を数店舗経営するK氏は、自社で使うエビは国内問屋を通し高いので、ベトナム工場から直接仕入れれば安くなると思ったのだ。

工場に着くと、日本からわざわざ来たお客さん?なので、工場長が対応してしてくれた。
K氏は、工場の規模を見て、工場長の説明を受けて、あからさまに無口になった。
シープロデックスの日本顧客は総合商社で、コンテナ数本が最低ロットだったのだ。
K氏は2m³ぐらいをカートンで買えると思っていたようだ。
我々は場違いの冷やかし客状態だった。

こういった経験は、始めの3年ぐらいによくあった。
当時は、"ベトナムは安くて小規模な業者だろう"とか"お客様には丁重に対応してくれるだろう"と勘違いして訪問する人が多かった。

その後、K氏からはレストラン家具のオーダーを頂いた。
全く無駄な海産物視察という訳ではなかったのだ。

ベトナムは貧しい国と思いがちだが、私営企業は家族経営が多く、そのような会社を運営してる時点で、日本人サラリーマンより収入は多く、かなり資産を持っている。

そんな彼らはシビアで、コスパの悪いことは全くしない。
オーダーするなら見積もりする、なんて事を平気で言ってくる。
そんな態度でやっていけるのか?と文句を言っても仕方がない。
実際に存在してるからこんなやりとりがあるのだ。

私は、冷やかし客やクレーマーの相手を真摯にする日本人が好きだ。
しかし、世界で勝ち残っていけるとは思えない。
いいように使われて疲弊するだけだろう。


【ベトナムから雑貨類の仕入れをご検討の方へ】

私の履歴書2【独立して稼ぐのは簡単?】


初仕事。
会社を始めて4ヶ月が経とうとしていた。
当時の事務所の家賃は200ドルで、自身の住む借部屋の家賃は150ドルだったと記憶している。
生活もショボかった。
飯は50円ぐらいのローカル飯ばかりで、夜は20円程度の路上コーヒーばかり飲んでいた。
飽食の国から来た若者が"貧乏"を楽しんでいたのだろう。

激安のコスト体質だったのだが、スタッフも1人いて、その時の残り金は1,500ドル程度になってしまっていた。
私はそれなりに焦っていたが、何故か楽観的だった。
若さなのだろう。

そしてついに、初めての仕事をゲットした。
サンダル数十足のオーダーで、3万円にも満たなかったが、ひとりガッツポーズをした。
自力で金を稼いだのはこの時が初めてだ。
それまではサラリーマンとして金は貰うものだった。
注文してくれたお客さんは、大阪ミナミのアメリカ村の小さな小売店だった。
役に立たない知人?の知人だ。笑

会社をやってて辛いのは、金が無いことより仕事がないことだ。
ノリで会社をはじめて最初に感じたことだ。
たとえ金があっても従業員に与える仕事がないと、社内はダレて社員はヤル気がなくなり辞めてしまうものだ。
そして、一番辛いのは従業員が辞めていくことだ。

賢くて仕事ができても、精神的にタフでドライでないと社長業は向いてない。
ということなど、当時の私は全く知らなかった。

私の履歴書1【2000年にベトナムで起業】


2000年春頃。
ベトナムで生活、仕事して3年が過ぎた頃だ。
私はベトナムで貿易会社をつくった。

その時のビジネスパートナーは2才下のベトナム人女性Tだ。Tはそれまで、私にベトナム語をパートタイムで教えていた。貧乏な家庭出身だが、地方の国立大学を卒業した優秀な人間で、仕事もできた。しかし、数年後に裏切られることになる。その話は時系列上後にしたい。

何故貿易会社をしようと思ったかというと、金がなかったからだ。
貿易会社は、事務所だけで小資本でできる代表的な仕事だ。(怪しい仕事の代表でもある)
会社を始めた時に持っていたのは7,000ドルだった。
私の会社設立は、ノープランで適当なものだった。
当時のホーチミンは、日本人も少なく、日本人として存在するしてるだけでなんらかの仕事が降ってくるのではないかと思ったのだ。
サラリーマンを辞め、場当たり的に起業した典型だ。
うまくいくはずがない。
実際、数ヶ月間全く仕事はなかった。
しかし、根拠なき自信とヤル気はあった。

私は友人、知人に営業活動をした。
「ベトナムから何か買いませんか?海産物や民芸雑貨などいろいろあって安いですよー」と。
どうなったか?
どうにもならなかった。

独立したことがある人ならわかると思う。
友人知人は意外と協力的ではなく、役に立たない。
誰も助けてくれないのだ。
その当時、まだネットが普及しきっておらず、Eメールアドレスを持ってない人もいた。国際電話料金はかなり高かったので、FAXを使って営業した記憶がある。

*写真は、私が初めてサイゴンに来た頃サイゴン川に浮いていたフローティングホテル。中にはディスコがありました。


【ベトナムから雑貨類の仕入れをご検討の方へ】
【ホーチミンで単身者向け賃貸マンションお探しの方へ】1区まで5分!

【TROPIC再開店!】ホーチミンのドンコイ通りにあるベトナム雑貨の土産物屋

TROPIC再開店! 全世界の読者の皆様お久しぶりです。 2023年12月下旬、コロナで長期閉店していた土産物屋TROPICがリオープンしました。 コロナ閉店前の最後の営業日は2020年の3月31日でした。 実に、3年9ヵ月間お店は寝ていたのです。 もちろん、みなさんにとっては辺...