2022年11月14日月曜日

ホーチミン駐在の実態1「あの頃、ベトナム駐在はパラダイスだった…」


1990年代。
ベトナム駐在はパラダイスだった。

当時のベトナムは最貧国の一つとして位置づけられており、GDPが当時のTOYOTAの売上に及ばなかった頃だ。
フォーが一杯で20円、会社員の給与が5,000円以下だった。

日本ではバブルがはじけ、経済成長が停滞し始めていたが、まだ世界2位のGDPであり、当時のベトナム人からすると、日本人は大金持ちだった。
日本人は賢くてよく働くというイメージ、幻想も強かった。
また、ベトナムは親日なので、日本人にとって居心地が良いのだ。

こんな時代の状況下でベトナムに赴任する駐在員は、オイシイ。
海外赴任手当、ハードシップ手当、その他手当、みなし税云々で、手取り給料が2倍近くになることも普通だ。
メイド付きのヴィラやサービスアパート(掃除洗濯付)は、電気水道ネット代等込みで全額会社負担。
移動は運転手付きの車が各個人用にあり、ゴルフに行くのにも使える。(日本では満員電車で通勤してたのに)
1人駐在だと私的なゴルフやキャバクラ代を経費として落とすのもイージーだ。
朝食サービス+αを会社負担の家賃としている奴も少なくない。
小さな業横の話は、普通にあった。
仕事場に上司や同僚がほぼおらず、いるのは激安給与のベトナム人部下だけだ。
駐在員は、伸び伸びと、偉そうな態度になる。(人間だからね)


夜の10時。
伊藤忠商事ホーチミン所長宅。
そのヴィラは無駄に広く、社員はいつでも自由に使っていいことになっていた。
私の対面(トイメン)は伊藤忠の繊維部長、上家は第一勧銀駐在員事務所長、下家はJALホーチミン支店長だ。
雀卓周りのサイドテーブルには、私が手配した割高な弁当が置かれている。
当時数少ない日本食屋サイゴンカラオケに配達してもらったものだ。
風速2ドル。

若い私は、駐在員同士で麻雀するときの幹事として重宝されていた。
他社の駐在員を麻雀に誘ってメンツを揃えるのは面倒だし、誘って断られるのが嫌だったのだろう。

この頃ベトナムに進出していた日系企業は少なく、駐在員といえば大手企業の社員だけだ。
その中で麻雀好き、してもいいよ、ぐらいの人は20人ぐらいだった。
私は週に2~3回、このオジサン達と麻雀をした。
そんな人達の事をちょっと思い出してみる。


伊藤忠の繊維カンパニー部長H氏(50代)
日本の伊藤忠で繊維の部長といったら大したものだ。(数年後には役員だろう)
H氏のこの肩書は、ホーチミン駐在員事務所限定のものだ。
帰任すれば課長(代理かな)ぐらいである。

H氏はろくに仕事をしない男だった。(と社内で言われていた)
典型的な昭和の宴会部長だ。
仕事で使わないエネルギーは5時以降に爆発させていた。
平日夜はキャバクラかカラオケか麻雀。(歌はうまい)
週末は競馬かゴルフ。(ポニー競馬場がある)
ヘビースモーカーだ。(イメージ通り)
会社が用意しているサービスアパートにはほとんど帰らず、囲っている愛人宅に入り浸っていた。(毎月500ドルの小遣いを渡していた)

当時ニューワールドホテル別棟の1階にディスコ、2階にカラオケがあり、H氏はよくそこに行っていた。
私も付き合いで何度か行ったことがある。
50過ぎのH氏が、酔っ払ってディスコの真ん中で踊り狂っているのを見た。
滑稽だったが、ちょっと羨ましかった。

こんなキャラクターのH氏は、当然?麻雀が弱かった。(ありがとうございます)
でも暇なので、業務時間関係なく、私に電話をしてきた。
「今晩メンツ集めれる?」
「はい、今すぐ手配して折り返します。」

氏と人生勉強となるような会話をした記憶はない。
背中を見て学べ、というタイプだったのだろう。。。


*写真は90年代後半のミスベトナムNgocKhanhだ。
一緒に写真を撮ってもらったことがあるが、とんでもなく美人だった。
当時はベトナムで一番綺麗な女性にも簡単?に会えたのだ。

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